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太陰太陽暦(月暦)について

 太陰太陽暦は古代中国で編み出され(殆ど同時期に西欧でも発見されましたが、西欧では比較的速く太陽暦に移行)、6世紀頃百済を通じて日本に伝えられた暦で、明治の改暦が行われるまで、幾度かの改暦が行われつつ日本で長く使われていた暦です。いわゆる現代では旧暦と呼ばれるもので、太陽暦に比べ前時代的・非科学的という印象を懐いている人が多く見受けられますが、日本で最後まで使用されていた天保暦は太陰太陽暦として、月と太陽の運行をかなり正確に観測して編まれていて、太陽暦だけでは知ることができない月の運行を把握することができるということで、考えようによっては太陽暦よりも高度な観測技術が必要ということもできます。
 しかし、太陰太陽暦を世界の標準暦とするにはあまりにも複雑すぎて、正確に月日を読むには暦を見なければならないし、太陽暦のように特定の月日の季節を比較することはできません。近代科学や宇宙科学、グローバルな時代の要請を考えた場合、より普遍的な計算基準が必要なため、太陽暦のように合理的な暦が世界標準になることは当然の成り行きでしょうし、太陰太陽暦が世界標準の暦になる可能性はほとんどないでしょう。
 しかし、私たち人類にとって、最も身近な天体といえば、月と太陽で、地球環境を考える上でもどちらをないがしろにしていいはずがありません。月は、衛星としては異例の大きさを持っていて、私たちの棲む地球や生態に少なからず影響を及ぼしています。それらは、人類の貴重な経験や智恵として蓄積されています。もちろんとるに足らない迷信・俗信もあるかも知れませんが、太陰太陽暦を通して、より月を身近に感じ、より豊で味わいある自然観・感受性を育む一助となれば幸いです。
 人類が最初に使用した暦は、月の満ち欠けを基にした太陰暦であったというのは既に述べたとおりですが、純粋な太陰暦では季節感が分からなくなってしまうので、太陽の運行を加味した太陰太陽暦が生まれたわけです。先にも述べましたが、西洋諸国では比較的早くから太陽暦(当時はユリウス暦)に移行しました。しかし、アジア諸国、とりわけ東アジアでは太陽暦に移行することなく長く太陰太陽暦を使用することになります。なぜアジアで太陽暦への移行が遅れたのか、後で考えてみたいと思います。

 太陰太陽暦はその名の通り、月の運行(月の満ち欠け)をもとにしつつ太陽の運行を加味した暦ということができます。純粋な太陰暦の一年は太陽暦に比べ約11日短く、そのまま放置すると3年で1ヵ月強ずれてしまい、農耕民族でもあった特に東アジア地域では季節がめちゃくちゃになり、暦としてはかなり不都合なものになってしまいます。そのために太陽の運行を加味し工夫されたのが太陰太陽暦です。太陰太陽暦では、ほぼ3年に一度(太陽暦とのズレをなくすため)、正確には19年に7度の割合で閏月を設け(置閏法=注)、その年は一年が13ヵ月となり、暦と季節が大きくずれることを防いでいます。さらに太陽暦に沿って二十四節気が編み出されました。二十四節気については後述しますが、中気を含まない月に閏月が置かれ、年始は冬至の翌々月、つまり立春前後に設けられ、一月には必ず雨水が含まれました。これにより1年の始めと四季の始めが一致するように工夫したのです。
 むろん太陰太陽暦は月の運行を基に編み出された暦なので、常に新月(朔)の日が一日(ついたち)となります。
 月は、約29.5日かけて新月から次第に満ち満月を経て、欠けはじめ再び新月に向かうというように、劇的な変化(満ち欠け)を繰り返します。これが朔望月といい、太陰太陽暦(旧暦)のひと月で、二十九日(小の月)か三十日(大の月)で成り立っています。

月と季節の暦(旧暦カレンダー)
太陰太陽暦(旧暦カレンダー)―『月と季節の暦』
より―

太陰太陽暦(月暦、旧暦)ならではの言葉

●朔日(さくじつ・ついたち)
太陰太陽暦は、月の運行を基に編み出された暦なので、月の始まりは常に新月の日と定められています。和名の「ついたち」という言葉は、これから月が満ち欠けを開始するという「つきたち」が訛ったものともいわれ、この新月の日を表す朔に由来します。

●ひと月
太陰太陽暦の一カ月は、新月から満月を経て、次の新月までの朔望月です。平均29.53日で、0.53という半端な日数はないので、29日の「小の月」と30日の「大の月」で成り立っています。太陽暦の月が30日前後なのはこの月暦の名残です。

●三日月(みかづき)
本来は旧暦三日の月を三日月といいます。現代にあっては三日目の月という概念がありませんから、眉のように細い月を総称して三日月と呼んでいます。月例でいえば2〜3の頃の月と言えるでしょうか。
三日月には異名も多く、眉月、剣の月、孤月、夕月、初月などなど。
古代ローマで、ユリウス暦に移行するまでは、三日月が西の空に見え始めると、見張り役が「カレオ」と叫んで日を知らせたといわれていて、この叫ぶというラテン語のカレオがカレンダーの語源です。新月や二日の月は殆ど見ることができないので、古代ローマでは月が見え始めてから逆算して新月の日を予測したのです。

●十五夜(じゅうごや)
十五夜といえば満月を連想させますが、本来は旧暦十五日の月で、必ずしも満月とは限りません。もっともこれは現代に限らず、太陰太陽暦を使っていた頃から、十五夜と満月を明確に区別していたわけでもなさそうです。

●十六夜(いざよい)
十六夜とは旧暦十六日の夜の月で、十五夜より一時間程度遅れて月が出る様をためらいがちに昇ることからこう呼ばれています。

●晦日(みそか)
小の月の場合は二十九日、大の月の場合は三十日の月末をいいます。晦日とは晦(つごもる)で月隠る(月が隠れる)ところからでた言葉で、もちろん旧暦ならではの言葉でしたが、現在では月のあるなしに関係なく太陽暦の月末を晦日と言うようになりました。
旧暦十二月の晦日を大晦日(おおつごもり)と呼んでいました。
因みに、明治の改暦では、「晦日に月が出る!」と大騒ぎになりました。このことから、あり得ないことの喩えに「晦日に月が出る」と呼んでいました。

歌川国芳・伊勢暦を見入る女性

★現在私たちが使用している太陽暦ならば西向くサムライといって2、4、6、9、11(士)月以外が31日と固定されていますが、月暦は、月が新月になる日を朔日としているわけで、その月が大の月(30日)か小の月(29日)かは、毎年定まっていません。これを知っていなければ、大失敗を被ることもあるため、大切な情報でした。
江戸時代はツケ売りが結構盛んで、晦日に集金するケースが殆どでした。晦日が三十日と思いこんで集金にいったら朔日になっていて集金をしそびれたなどという話は結構あったようです。

左の浮世絵は歌川国芳作「伊勢暦を見入る女性」


●閏月(うるうづきまたは後の月)
太陰太陽暦は、純粋な太陰暦では一太陽年に比べ、約11日短く、放置すれば3年で1ヵ月強ずれてしまうため、約3年に一度、正確には19年に7度の割合で、まるまる1ヵ月加え、その年を13ヵ月としています。これは、太陰太陽暦の最も大きな欠点で、常に新月の日を一日としているため、短い11日を調整する方法が他になく、閏月を入れるしかないのです。
閏月を入れる方法は、太陰太陽暦と二十四節気の項で詳述します。


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