「明治五年(1872)十二月三日を以って、明治六年(1873)一月一日とする」
明治政府は明治五年十一月九日(西暦1872年12月9日)に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から一日24時間の定刻制に替えることを布達したのです。布告から施行までわずか23日というスピード実施であり、しかも十二月(師走)がわずか二日で終わってしまったのです。当時の庶民のあわてようは想像に難くない。
なぜこれほどのスピード実施になったのかというと、明治政府の財政危機があったという。翌年の明治六年は旧暦で閏月があり一年が十三カ月になり、官吏の給料を13回支払わなければならず、その他の出費もかさむ、いっそ太陽暦を採用すればその心配もなくなり、その上明治五年の十二月も二日しかなければ、十二月の給料までもまるまる節約できると考えたのです。乱暴な話ですが、これがスピード改暦の真相だったとか。
むろん表向きは、欧米に追いつけ追い越せ、脱亜入欧の富国強兵が急務だった日本において、日本暦と西洋暦との間で起こる暦のズレは深刻な問題だったので、改暦は時流ともいえたでしょう。しかも改暦の急先鋒だった福沢諭吉などの存在を考えても、改暦は必然でした。
事実、明治四年の夏ごろには、政府内で密かに太陽暦採用の検討が行われてようですが、この時点ではまだ採用の方針が決まっていませんでした。その証拠に政府は、全国の暦屋を統合した領暦商社を結成させ(明治五年三月二十四日正式に承認)、二月には翌年の暦の原本を下げ渡し1万円の冥加金を上納させ、同年十月朔日、全国一斉に発売されました。暦が発売された一カ月後、政府はいきなり改暦の詔書をだしたのですから領暦商社の驚きは尋常ではなかったと思われます。1万円上納金を納め、4万円に迫る損害金を出したのですから、まさに政府にだまし討ちにあったようなものです。
■改暦の反響
この改暦、スピードだけでなくかなり強引でもあったようで、当時の人々の混迷ぶりは相当なものがあったようです。従来の年中行事や慣習がめちゃくちゃになったことは言うまでもなく、当時の新聞から拾ってみるとこうです。
「世の中の絶無の例とされていた晦日に月が出るようになった」「十五日に仲秋の月もなく、三十日(みそか)に月の出る代と変わりけり」「三十日に月もいづれば玉子の四角もあるべし」
さらに深刻だったのが、地方の農家でした。従来の慣習によらないと種まきから収穫までさっぱり見当がつかなくなったのです。
また季語を命とする詩歌俳諧の世界も大混乱を被りました。
「同じき年の冬(明治五年)十一月に布告ありて、来月三日は西洋の一月一日なれば吾邦も西洋の暦を用ふべしとて、十二月は僅か二日にして一月一日となりぬ、されば暮の餅つくこともあわただしく、あるは元旦の餅のみを餅屋にかひもとめて、ことをすますものあり(中略)、詩歌を作るにも初春といひ梅柳の景物もなく、春といふべからねば、桃李櫻花も皆夏咲くことになりて、趣向大ちがいとなれり」(浅野梅堂『随筆聽興』)
■改暦の影響をまともに受けた鉄道
日本の鉄道は、明治五年五月七日(1872年6月12日)に駅舎が完成し、同年九月十二日(10月15日)、新橋〜横浜間で華々しく開業しました。維新の波が押し寄せ、その年の十二月三日に太陰暦から太陽暦に改暦され、明治6年1月1日となりました。
改暦と同時に、「不定時法」から、西洋で行われている近代的な「定時法」へ転換し、まさに鎖国の時間からの近代化ともいうべき「時間の開国」でもあったわけですが、鉄道は直接その影響を受けた格好になりました。
当時、急に定時法を採用されても、まだ時計も普及していなかったし、それまでの不定時法の「時(とき)」と間違いやすかったので、書くときは「 字(じ)」という文字を使い区別したそうです。開業したとき作成された日本最初の鉄道時刻表の中で、発着時刻に「○字×分」のように「字」を使用していたのはこのためです。
なお、定時法の時刻は、時計の針を見れば分かることでしたが、当時の時計は遅れたり進んだりしたし、普及もしていなかったので鐘や大砲(午砲ードンといった)で修正したり、鐘などで時刻を知らせる必要があったのである。「字」という時刻表記は、翌明治6年1月から「時」の文字に統一されたので「字」と書かれた時刻表で残っているものは極めて少ないそうです。