はじめに
「違いが分かる」といって思い出すのは、あのインスタントコーヒーのコマーシャル。松山善三が初代「違いが分かる男」だった。その後3代目は中村吉右衛門、16代目はやまもと寛斎と続き、23代の宮本輝からは「上質を知る男」となり、その後も宮本亜門など多くのセレブリティ達が「上質を知る男」ブリを楽しませてくれた。唐沢寿明と市川染五郎、松本幸四郎、松たか子からは「違いを楽しむ人」として、私たちに違いを楽しむ術を教えてくれた。
しかし、「違いを知る」とはどういうことか。違いをわからない人間が、「違いが分かる」ということを書こうという。それは無謀、大胆不適、恥知らず、恐れを知らないと言うか、厚顔無恥というものでしょうが、まあ難いことはいいっこなしということで…。
違いを知る人とは、達人、一芸に秀でた人、プロフェッショナル、エキスパートなど人生やその分野なりを究めた人や物事に関して様々な引き出しをもっている人、今風にいえばカリスマな人などもその分野において違いを知る人といえるかも知れない。
以前「この黒は白い」と言った人がいた。別に白を黒と言いくるめるわけではなく、いわゆるこちらの黒の方があちらの黒より白い、ということで、黒色の違いを述べたのだが、黒の微妙な差が分からない人にとっては何を言っているんだということになる。
女性は男性より色彩感覚が鋭いという。絶対的な性差によるという部分もあるかも知れないが、色に対する決定的な関心の違いによるところも大きいかも知れない。同じ赤でもその微妙な違いを感じられる人もいるのだ。
また、師弟制度のなかで、弟子が作ったものを、なにもいわずにたたき割る師匠がいた。弟子にしてみればなにが悪かったのか解らず、なぜ?と腹も立ち、「どこが悪いか言ってくれればいいじゃないか」と師匠に対する不満を懐いたりする。しかし、師匠にしてみれば説明して解るものと、本人が自覚したり会得するものでなければ解らないものとがあることを知っての上での行為だったりする。ものが解る、違いがわかるには「機」機根、解るに足る土台が必要だということである。もちろん後になって師匠の心を知ることになれば弟子は、大きく師に近づいたことになり、多いに感謝するのである。
営業の神様といわれる人がいたとする。それをいくら真似てもやはりトップセールスにはなれない。営業の神様には、普通の人には解らない違いがあるのだろう。物の考え方や、人に関するちょっとした気配り、瞬時の判断力などさまざまな違いがあるに違いない。
インディアンは、草木に関する語彙が豊富であるという。語彙の多さはそれだけ草木に関して違いを感じられる証ともなるだろう。
ある東北人と東京人の会話を耳にした。
東北人「えけだです」
東京人「えけださんですか」
東北人「いえ、えけだです」
東京人「だからえけださんだろ?」
この会話からあなたは何を感じますか?
東京人が、東北人の訛りをからかっている図を思い浮かべるだろうか。しかし、ここで一歩踏み込んで考えると、東北人が言うところの「え」と、東京人の言う「え」には差があるということだ。東北人がいう「え」とは「ゐ」に近い「え」で、東京人がいう「え」とは、ただの「え」なのだ。
言い方を変えれば、東京人の耳は「えとゑ」「いとゐ」の区別ができないということで、東京人こそからかわれていいはずである。日本語はかつて、母音が少なくとも8つあったはずで、これは、万葉仮名をみれば一目瞭然だ。
「違い」というものは「違いがわからない」人にとってはいわば到底理解不能、という当たり前のことが解らないものだ。違いが分かるか分からないかは、自分では正確に把握できていない。把握できないから違いがわかる人が難なく気づくことにも気づかず、折角の成長のチャンスを逃すのである。
時として話は脱線するかも知れないが、とにかくこの「違い」についてさまざまな事例を通して考えてみたい。
続きは、気まぐれな管理人なのでいつになるかは保証の限りではないことを付け加えておきます。